新規案件MU001

移動にかかった数時間のあいだにケータイでひまつぶしに書いた。続かないけれど、先は読めると思うw

 同僚の訃報が入ったのは八月の盆入りの朝だった。

 世の中のほとんどの特許事務所は、業界をしろしめすアルファでありオメガである特許庁と完全に同期して動いている。したがって「盆休み? なにそれおいしいの?」が業界全体の諦めまじりの常識であり、うちの事務所でも、所員の五分の四が当然のように出勤していたのだが、この唐突な訃報に驚きを見せたのはごく少数だった。平素から噂にうとい人間をのぞけば、誰もがなんとなくこんなふうになるかも、と予期していたのだ。悲観的といえば悲観的だが、亡くなった弁理士の無断欠勤中に伝わってきた話は、最悪の結果を予感させるにふさわしい不吉な相を帯びていた。

 通夜は次の日だった。事務の仕事をなるべく早めに切り上げたのに、斎場に着くともう読経が始まっていた。

 お棺の窓は閉じられたままで、若手イケメンとして有名だった彼の顔を見ることはできなかった。事故の詳細は伏せられたままだったが、致命傷は頭部損傷だったというから、そういう理由なのかもしれない。

 帰り道、一緒に出かけた事務の同僚二人と、駅に近い回転寿司屋に寄った。マグロの旨い人気店で、夏休みということもあってか、家族連れでたいへんにぎわっていたが、三十分待っただけで奥の座敷に入ることが出来た。

「やっぱりネットでお店調べてきて良かったスね、おなか空きましたー」

「マグロなんてひさしぶりだよ。ああ食べたーい」

 同僚たちは口々に云いながら、むぎわら色に日焼けした畳に並ぶ薄座布団の上、黒ストッキングの膝を折って座った。てらっと光る茶色の座卓と彼女たちの喪服姿には妙な既視感がある。頭の中で法事と寿司をワンセットにしているからだろう。

ラミネートされたA3サイズのメニューでネタと皿の色を見比べながらマグロそのほかを適当にオーダーしてから、三人全員、しめしあわせたようについた溜息は長く、深かった。

「どーすんだろね、こういう案件。死ぬ前にちゃんと出願してほしかったなあ。誰かが途中までやったのってやりにくいじゃん」

 血も涙もないことを云いながら、いちばん年嵩のJ女史が、横に置いた紙袋に手を伸ばした。がさがさと取り出したのは、真新しい水色の書類フォルダだ。さっき彼女が通夜の席で部長からしわだらけの紙袋を受け取るところは見ていたが、死んだ彼の担当案件のフォルダが詰まっていたらしい。

「K先生、センセイにしてはめずらしく若くてかっこよかったのにね。マジで損失。何を楽しみにして暮らそうかしら」

「いや、そこは問題じゃないスから」

 冷静にさえぎったのは、いちばん若いけれど事務歴最長のA嬢だ。

「すいませんJさん、その出願人、前にやったとこですか? 見たことない略号書いてありますけど。MUって?」

「わかんないよ。見て。Miskatonic Universityって。知ってる? 変な名前」

 「USの大学からの出願は多いですけどそこは聞いたことないスね。どこにあるんですか?」

「書誌情報見たら書いてあるんじゃない。ほら、ここ。【氏名又は名称】ミスカトニック大学、【住所又は居所】はアメリカ合衆国 マサチューセッツ州アーカム。【発明者】は一名」

「分野は電気? 化学(バケ)?」

「K先生だからバケでしょ。【発明の名称】はIntravenous Gene Therapy for Familial Innsmouth Syndrome…意味わかる、T?」

 J女史とA嬢がファイルの書類から目を上げてわたしを見た。海外の特許を日本国内で出願するのがうちの部署の仕事だから、基本的には事務も全員英語のレターの読み書きはできるけれど、訳すとなるとまた別らしい。わたしは事務になる前は翻訳をしていたこともあったので、意味を取るのは難しくなかった。

「血管内投与による遺伝子治療、ですよ。メディカル絡みのバケですかね。でも聞いたことのない病名ですよ。Familial は『家族性』、そのあとのInnsmouthは地名か発見者の名だと思うけど」

「AIDSとかBSEみたいな新しい病気かも」

「そこまで患者が多くなくても、患者数五万人以下の珍しい病気に対して作られるオーファン・ドラッグっていうのもあるんで、そういう系のレアな治療方法の特許かも知れませんよ」

「あー、ほかのファイルもそれの周辺特許っぽい。みんな似てる。優先権期限も一緒。だからひとまとめにしてK先生に振ったんだなこれ」

「うぇ。メディカル絡みのバケなんて、ほかのセンセイに出来るんスか」

「あはは、できるわけないじゃん。K先生は生化学とかやってたからいいけどさ。ああ、いろいろもったいないね。職場のイケメンくらい勤労意欲を掻き立てる存在はないのにさ」

「Jさんイケメン好きですもんねー。つーか、そんなに変わったひとには見えませんでしたけどねぇK先生」

 A嬢が短い髪をかきあげるようにして座卓に片肘をついた。 

 たしかに、弁理士には変わったひとが多い。けれど、その日常はおのおののが作り上げた奇矯な天国に安住する怠惰な神々といった様子で、クライアントの小間使いとして走り回ったあげくに車の前に飛び込むという人生ゲームの上がり方は、ふさわしくないように思えた。

 すくなくとも彼らの下僕として昼も夜もファイルを抱えて走り回る事務員には納得がいかない死だった。せっかく難関を突破して弁理士になったのに、わずか半年で仕事に追い詰められるなんて。