アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系


仕事の合間に楽しく読了。中山さん、お勧めありがとうございました。

職場では今日も、電話をかけてきた顧客に、会社ホームページのログインシステムとその後の操作を画面を見ながら丁寧に、またとても大声で説明しているひとがいた。

年配の顧客層からは日に何度もそのたぐいの問い合わせが来る。「説明ってそこからですか」と内心ツッコミを入れながら背中で聞く機会も多い。

これから十年二十年と経つうちに、ネット利用経験がないひとはいなくなるか、とても少数になっていくだろう。ネットを介したショッピングが、電車の切符券売機やATMのような社会の完全なインフラとなるその日までは、ああいうとても基本的な(と自分には感じられる)問い合わせに誰かが答え続けなくてはならないのかと思うと、ちょっとくらくらした。

ネットを含まない社会から含む社会への、長い過渡期の途中なのだ。今は。

さて、話を本に戻す。

特許の明細書風に書くと「この本はネット考現学に関する。」となる。*1

考現学というのは、昭和のはじめの民俗学者である今和次郎(こん・わじろう)が考古学をひねって作った言葉。現代の社会現象を定点的に観測・研究しようとするもので、80年代に一世を風靡した路上観察学などを生んだ。wikiはこちら。ここの記述によると、今は、師匠であった柳田國男にこの研究を始めたために破門されたという。重みも厚みもないぺらっぺらの現代風俗なんぞを取り上げて「研究」とはちゃんちゃらおかしいということか。

考現学が提唱されてから約一世紀。震災後の焼け野原にバラックが林立し始めたときと同じくらいドラスティックな変化が、今度は誰の目にも見えないところで始まった。全世界を飲み込む巨大都市は、物理現実においては不可視ながら機械のネットワークの中に確かに成立しつつある。その独特の習俗に通じていない外部の目からはもちろん、機械の壁の内側に居てさえも見通しにくい都市の立体構造と枠組みから徐々に、新しい秩序が生まれようとしている。その仕組みと特徴をわかりやすい言葉で案内してくれるのがこの本である。

今なら、それは去年や昨日の話、ある意味常識、とさえいえるような事件であっても、十年経てば記憶は風化して、知る人もいなくなる。ウェブ魚拓まとめサイトは残っても、その因果や脈絡を語り起こすことは誰にもできなくなるかもしれない。それらをごく一部とはいえ整然と書き残していることで、この本はすでにクラシックとなる価値を持っているといえる。*2

ふだんから接してよく知っているようでいて、あまり意識していないネット社会の細部の説明が面白かった。

住民の意識や文化が違えば、成立する社会もおのずと異なってくる。それはリアルであってもネットであっても変わらない。漢字、技術、民主主義と輸入したものを手なずけ変容させていくのに長けたこの国の民草が、不可視の巨大都市の一角にどのような版図を築いていくのか。ネットに暮らして十年になる野次馬としては、これからがとても楽しみだ。

*1:変な文章だと思うかもしれないが、明細書は本当にこういう文章から始まったりする。

*2:今は80年代のバブル風俗を再現することはできても、その頃の街中の風景の再現はとても難しいという。昭和三十年代を舞台にした映画『ALWAYS』のなかの東京が現存しないのと同様に、わずか十数年で街並みが完全に変わってしまったのだ。ネットの中でもこれから同じ現象が起きるだろう。常識はどんどん古くなり、瑣末な事件は忘れられていく。過去を探り出せるのはネットの各方面や層に点在する現象の脈絡をトラックできる者だけだ。