The Japanese Beetle Mystery

十年くらい前に、虫屋系の謎解きのネタを流し書きしたのを思い出したので晒してみる。タイトルでおわかりのように、ある有名ミステリシリーズのパスティーシュ形式になっているので、そういうのがお嫌いな方は気をつけて。数日で削除します。


「関西の犯罪学のナポレオンというのは君か」

 背後からかけられた声に、彼は口元にコーヒー缶を運びかけた手を停めて、振り返った。蛍光灯に照らされた階段を降りてくる相手に見覚えはなかった。地味なスーツ姿の男だ。六十を過ぎたばかりとみえる。目立つ銀白の髪をぴったりとなでつけ、メタルフレームの眼鏡をかけていた。痩せて小柄だが目つきが鋭く、それが独特の威圧感を生み出している。ここ――府警の関係者だろうか。

 黙って考えている彼の眼差しを見返しながら、男は自販機のそばに近づいてきた。

「そんなふうに形容されるのは不本意かね」

 犯罪学ではなく、犯罪界のナポレオンといえば――彼は薄く微笑んだ。

「いえ。捜査に横槍を入れるなとか、さしでがましい口を利くな、というのは良く云われますが、ホームズのライバルに例えられたのは初めてですよ」

 彼がそう答えると、男はそげた頬を歪めてみせた。

「わたしを蝿の王と呼ぶ人間もいる。犯罪界のナポレオン、ジェイムズ・モリアーティは人間だが、蝿の王といえば悪魔の異名だ。酷い綽名だがまともに取り合うだけバカを見る。こちらに来るたびに君の噂は聞いていたが、本物と遭遇するとは思わなかった。なるほど、見事な若白髪だな」

 それだけで自分の名と身分を見分けられたとはとても思えなかったが、その点には触れずに、彼は相手を見つめた。

「失礼ですが、あなたは?」

「ハエ屋だ」

 男はきっぱりとした口調で名乗った。

◆ ◆ ◆

「ハエヤって……どう書くんやろ」

 空中に指をすべらせて漢字を描く友人を、煙草をくわえた犯罪学者は呆れたように見た。

「苗字じゃねぇよ。前にマレーシアに行ったとき、キャメロン・ハイランドで蝶キチガイの連中をたくさん見かけたろう? ああいう連中のことを、虫の愛好家の世界では蝶屋と呼ぶんだそうだ。蝶に屋号の屋をくっつけてな。それと同じだ」

「ってことは蝿が好きなマニア? 蝿マニアってのはまたえらく……」

「そうだ。珍しい。だから、あとで訊いたらどこの誰かはすぐにわかったよ」

「謹聴謹聴」

「おまえ、相当酔ってるな」

◆ ◆ ◆

「蝿屋……ですか」

「そうだ。昆虫類双翅目のハエだよ。知っているだろう? 君と同じ死体愛好家だよ。彼らを研究しているから、そう呼ばれている」

 自分を怒らせようとしているのだろうか、と彼は訝ったが、相手の表情は険しいといってもいいほど真面目で、諧謔の色はまったくない。もともとだれに対してもそういう口のききかたをする男なのかもしれない。

「君も――」

 男は、つと眉をしかめ、探るような眼差しで彼を見つめた。

「あの死体絡みでここに来たのか?」

 なんのことかわからない、と彼が首をかしげてみせると、男はふうっと息を吐いた。何かに苛立っているようだった。

「昨日、能勢で見つかった男だよ。こっちにいるのならちょっと来てくれと馬鹿な刑事に呼ばれて、このざまだ。専門外だと何度も云ったのにな。新幹線ぎりぎりまでひきとめられた」

「ああ、終電なら、そろそろ行かないと…」

「無論だ。会議の途中らしいが、もう待てないからな。帰る。君は……どこに住んでるんだ?」

「京都の、北白川です」

「ほう。訛りがない。いつも相棒と二人でいると云うから、関西の芸人のようなのを想像していたんだが」

 男は意外そうに云って、そして腕時計を確認した。

「連中に伝えておいてくれないか。犯行現場は別の場所だ」

「……?」

「死体はひとりじゃ歩けない。誰かがどこかで殺して能勢に捨てたんだ。まったくお粗末な話だ。オオクワやコクワならともかく。素人臭がぷんぷんする。そう云っておいてくれ。あとはそうだな、君宛てに資料をおくるから、それを見て、君のブリリアントな当て推量を付け加えてくれれば最高だ。会えてよかった。君の言葉ならあいつらも耳を傾けるだろう。それでは失礼するよ、助教授」

 彼が何も云えずにいる間に、男は手を上げて、そのまま階段を下っていった。

◆ ◆ ◆

「……おい、何で突っ伏して痙攣してるんだよ。笑いすぎだろ」

「いやあ、いうに事欠いて関西芸人のブリリアントな当て推量ってすごいなと思って」

「あのな。おまえも勘定に入ってるんだぜ」

「ボケとツッコミは探偵と助手の基本やからそう云われてもべつに気にならないって。それで? 話したかったのは、その失礼な蝿屋のおっさんじゃなくて、彼が云ってた死体の話やないのか」

「俺が話したかったんじゃなくて、おまえが聞きたがったんだろうが。だから、寝るなよ」

◆ ◆ ◆

「あれっ、先生。どうしたんですか。今夜はもう帰るっておっしゃってたじゃないですか」

「ちょっと訊きたいことができた。能勢で死体が見つかったという件は―――」

「あれですか。あれはうちの班の担当じゃなくて」

 若い刑事は首をのばして、机の列の一角を見渡した。

「ああ、担当者みんな会議に入ってますね。でも、被害者の身元はもうわかってるんですよ。事故の線で固まってます。ええーと……」

 配られていた資料を取ってめくりながら、刑事は云った。

「被害者は大阪市内の会社員、三十ニ歳。独身。十三で一人暮らしをしてたそうです。並外れた昆虫収集マニアで、自分で採りに行っては標本を作っていたようで、いつものようにひとりで採集に出かけた能勢で、急な斜面から落っこちたらしくて、片手に獲物を握ってたそうですよ。死んでも離すまいってとこですかね。死に際の執念かな」

「虫の種類は?」

 まさかハエじゃあるまいな、と思いながら尋ねると、若者は特異な趣味に殉じた死者をあわれむように溜息をついた。

コガネムシじゃなかったかなあ。小さいやつ」

「他に証拠品は?」

「いえ、何も。どうしてですか」

「さっき、蝿の研究者と名乗る男とすれちがったんだ。その能勢の死体を担当している誰かに呼ばれてきたようなことを云っていたんだが、彼の連絡先はわかるかな」

「はいはい、蝿の、研究者、…と。わかりました。いま会議に入ってる連中が戻ってきたら、訊いてみます。わかったらお知らせしますよ。携帯でいいですか?」

◆ ◆ ◆

「その晩はそこまでだった」

 犯罪学者は、煙を吐いて、片膝を立てた姿勢で椅子によりかかった。

ブリリアントな当て推量にも、タネは欠かせないからな」

「たしかに、それだけやったら完全に情報不足やな。能勢で死んでた男の死体の様子や死因は?」

「国道沿いの山中の急斜面だ。死因は頚部骨折。解剖結果によると、死後二週間ほど経っている。会社に来なくなった日時とぴったり一致した。十月だからな、腐敗分解の状態も夏の盛りほど酷くはなかったそうだ」

「ふーん。十月に虫捕りなんて変わってるな。蝿屋のおっさんのほうは?」

「連絡したさ、もちろん。本人が名乗った通りの人物だった。東京の国立大学を退官した農学博士……というか昆虫学者だ。ハエの専門家だから、時折警察から相談を受けて死体から採取されたウジの培養とかをやってるんだそうだ。学者なのに犯罪捜査に協力しているヤツなら他にもいるってことで、誰かが俺のことを引き合いに出して、それで覚えてたらしい」

「それは……ウジの成育具合で、遺体が死後どれくらい経過しているかが正確にわかるって研究やな」

「ああ。あとは、死体が置かれていた状況とかな。外国では、そういう作業は法医昆虫学者と呼ばれる専門家がやってるそうだが、日本には専門家がいないんだとぼやいていたよ」

「あ、それで、そのおっさんは――」

「違う。ハエじゃない。ついてたハエはごくありふれた種類だったそうだ」

「え?」

「握ってた虫が問題だったんだ」

◆ ◆ ◆

「すみません、先生、このコオロギみたいなコガネムシが、なんですって?」

「コブヤハズカミキリ。あの蝿屋の先生によると、そういう名前らしい」

「カミキリ? でも……カミキリムシって、もっとこう、でっかくありませんでしたっけ。ヒゲがすごく長くって、つかまえると首を振ってキイキイ鳴くやつですよね?」

「ああ。これでもカミキリムシの中では中型で、しかしこんな色で木の幹の上や枯葉の中にいるから見つけるのがむずかしい、マニア好みの種類だそうだよ。甲虫としてはめずらしくエリトラ…鞘翅が癒着して飛べないから、生息する地域によって体色変化が大きくて、それがマニアの蒐集心をそそるんだそうだ」

「あのう、すいません、先生が何云ってるかよくわかんないんですけど」

「俺だって、送られてきた資料を覚えてきただけだよ。質問はあっちの蝿屋の先生にしてくれ。俺は電報ゲームの片棒を担がされているだけだ。話を続けるぞ。能勢のあたりはカミキリ派よりはクワガタマニアに人気があるんだそうだ。しかし死んだ男はカミキリムシのマニアだから、まずそれでおかしいと思ったそうだ。行くんなら、神戸とか奈良のあたりらしい。次に、十月はコブヤハズのウダツのシーズンだから……」

「ウダツ……すいません、ぜんぜんわかりません先生!」

◆ ◆ ◆

「そんな特殊な専門用語、知ってる人間のほうが少ないやろ。蝿屋のおっさん、面倒な説明役をこっちに押しつけてトンズラか」

「そういうことだ。数日後には海外に飛ぶとかで、資料が届いてから電話したらもう留守だった。悪魔と呼ばれるだけのことはあるな。要領が良すぎて、まわりから憎まれるタイプだ」

「で、結局ウダツってのは何や」

「鳥の羽に、脱出のダツと書く。さなぎから出てきたカミキリが木から出てくること……だろうな、たぶん」

「木から?」

「カミキリの幼虫は木を食って育つんだ。掘りぬいたトンネルでさなぎになって、成虫になってから外に出てくる。いや、こんな基礎知識は今は関係ねぇんだよ、ったく。でな、このコブヤハズって種類は成虫で越冬する。だいたい秋に一斉に羽脱するから、勘所を押さえてるマニアならこのシーズンに探すところを探せばごっそり見つかるんだそうだよ。それなのに、被害者が手に握ってたのはたった一匹きり。背中の荷物に入ってた毒瓶も空だった」

「毒瓶って」

「捕まえた虫を放りこんで殺す瓶だ。アンモニアとか酢酸エチルなんかで湿した綿が入ってる。入れれば小さな虫なら数分でころりらしい」

「ナチのガス室と同じ発想か」

「そんなところだな。あんまり長いこと入れておくと色が変わっちまうから、死んだところをべつの容器に移して、持ち返ったら今度は標本を作る」

「それがルーチンか。でも、山でカミキリが取れるのは、ちっとも珍しくないやろ。その珍しいカミキリだって、たまたま一匹捕ったところで、転げ落ちたとか」

「違う。握ってた虫は、握られた時点でもう死んでたんだよ」

◆ ◆ ◆

「ほら。こっちから見ると、見えるだろ? カミキリの腹に穴が開いてるのが。こいつが、虫の死骸を食う虫にやられた跡なんだとさ」

「そんな、先生。投げやりに云わなくても」

「さっさとけりつけたいんだよ。どんどん行くからな。いいか、虫のマニアが死んでる虫を拾うことはあるが、カンピンじゃないと標本にできないから捨てる。ふつうならこんな虫は――なんだ?」

「あのぅ、話の腰を折ってすいません、カンピンって」

「完全な品と書いてカンピン。ヒゲとか脚とかが欠けてなくて、身体の部品がぜんぶそろった個体のことだな。って、ぜんぶ受け売りだからな。詳しくは訊かないでくれ」

「でも、死体があったのは森の中なんだから、虫を食べる虫に食われてても不思議はないでしょう?」

「俺もそう云ったんだ。だが、蝿屋の先生は反証として、二つの点を指摘した。まずひとつ。握られて死んでいたカミキリの脚やヒゲは、完全に伸びきっている。掌の中でもげていた脚三本もまっすぐだった。もう一つ。こいつの腹に穴を開けた虫の産卵期は六月。幼虫が発生するのは、例年七月。一年に一回しか発生しない。今は十月だろう?」

「……だから、えーと」

「七月に発生する虫にやられてる以上、三ヶ月前からこの虫は死んでるってことだ。さらに、脚をこんなふうにきれいに伸ばして死ぬ虫はいない。見たことあるだろう。落っこちたセミが脚を縮めて死んでるのを。普通はああなるんだそうだ。つまり―――誰かが伸ばしたんだよ。死んだ後にな。蝿屋の先生は『どうせ握らせるんなら、コクワガタならもっと信憑性が高かったのにな』と云っていた」

「―――」

「こいつは自然の中で生きて捕らえられた虫じゃない。とっくに殺されて、標本をつくる工程の途中にある虫だそうだ。分析にかけて調べれば、虫を殺すのに使われた可能性がある薬物、つまりアンモニアやら酢酸エチルの分解物が出るかもしれないとさ。『虫捕りと標本作りが下手くそな、被害者の虫屋仲間が犯人だろう』―――以上、蝿の王様からの伝言だ。あとはよろしく頼むぜ、大阪府警。俺の仕事はここまでだ」

◆ ◆ ◆

「すっかり事故だと思い込んでいた府警は、慌てて犯人を捜した。捕まったのは、虫マニアとしては致命的なほど虫を捕るのが下手な男で、それを被害者に馬鹿にされつづけて、ずっと根にもっていたらしい」

「それで殺したんか」

「同好の士の集まりで散々けなしたり、かなり酷かったそうだよ。仕事で怒られても耐えられるが、趣味でくそみそに貶されたら、ストレスの発散しようがない。しかし本人の申し立てによると、事故だったらしい。現場は加害者の家。供述では、標本にするために乾燥中のコブヤハズの整形を頼んだら、虫にやられてる、管理が悪い証拠だ、これを持っていってみんなにさらしものにしてやると云われて、口論になった。返せ返さないでもみあってるうちに、被害者は二階の階段から落ちた。で、困って捨てたんだとさ。カミキリの腹を食ってた虫はヒメマルカツオブシムシといって、有名な標本の害虫だそうだ。卵は、虫を乾燥させてるあいだに産み付けられたらしい。被害者の云うとおり、防虫管理がなってない証拠だな」

「虫捕りが下手ってよくわかったな」

蝿の王様いわく、虫ってのは、山ならどこにでもいるってもんじゃないんだと。捕れる場所は実は決まってて、だから彼は、クワガタマニアの聖地にカミキリの死骸を握った死体を捨てた犯人に、虫屋としてのセンスはあまりないだろうと読んだらしい」

「へえ。王様、大したもんやないか」

「餅は餅屋だ。一寸の虫にも五分の魂……魂が抜けた亡骸、残りの五分が、真犯人を知らせてくれたといいたいところだが、ほんとに魂なんてもんが存在するかどうかもわからないしな。あとで事件の顛末を報せたら、『虫屋の世界は狭いから、あんまりそっちに顔を突っ込んで知り合いが捕まるようなところも見たくない。だから、君に身代わりを頼んだ。煩わせてすまなかった』と返事が来たよ。彼は、最初から虫仲間の仕業だと思ってたみたいだな。同業者の勘ってやつだろう。御礼に事件解決の手柄はゆずるとさ。さあ、話はこれでおしまいだ。遠慮なくつぶれていいぞ作家センセイ」

「ひとを下戸扱いして。おまえだってそんなに強くないくせに」

「ほれ、飲め。蝿の王様に乾杯」

「犯罪学のナポレオンに乾杯」

「よせって」

「いいからいいから」

 笑いと、溜め息と。

 突き出されたビールの缶がぷつかって、鈍い音が響いた。

 end.