)食人賞/或る社員の独白。

食人賞(http://neo.g.hatena.ne.jp/hachi_gzk/20070926またはhttp://neo.g.hatena.ne.jp/keyword/%e9%a3%9f%e4%ba%ba%e8%b3%9e?kid=85))向け。長すぎてダメダメだが書いたのでさらす。喉のつかえが取れたようですっきりした。



 漆黒の鏡と化した窓に、蛍光灯に照らされたオフィスが映っていた。残っているのは私だけだ。調査室には深夜にならないとできない業務があって、今夜は私がその当番だった。昼はみな忙しすぎる。これから電話をかけることになっている相手も同様に、昼は仕事に拘束されているだろうと考えかけて、苦笑が湧いた。私にとっては単なる仕事だが、向こうにとってはもうそれどころではないだろう。ただひたすら私の電話を待っているにちがいなかった。

 時計を見る。約束した時間の五分前だったが、その程度なら規定の逸脱にはならない。私はモニタに今夜の案件の資料を呼び出してから、キーボードの横に置いておいた携帯電話を取り上げた。


 ワンコールで、相手が出た。


「もしもし」

 極限まで押し殺された、男の声だった。私はひそかに安堵する。女では調査がうまくいかないことがある。もちろん男でもそういうことはあるのだが。

「もしもし、高橋さんでいらっしゃいますか。こんばんは。メールを差し上げた件でお電話差し上げました。まことに勝手ながら、調査にはご協力頂けますでしょうか」

 男が、深く息を吸う気配がした。

「お、まえらは……娘は…娘は、無事なのか? 声を聞かせてくれないか、声だけでも」

「たいへん申し訳ありません。お嬢さんはこちらにはいらっしゃらないのですよ」

「貴様まさか」

「いいえ。お嬢さんは生きていらっしゃいます」

 まだ、と付け加えるような新人めいたミスはもうしない。電話の最初の数分は必ずこのやりとりに費やされるので、受け答えはルーチンで済んでしまう。

「今夜お電話したのはメールでお送りした質問状の回答をおうかがいするためです。本来電話口で回答いただくのは不本意なんですが、至急の案件でして」

 わたしは空いた手でマウスを操って、先日相手に送ったメールのウィンドウを開いた。耳に当てた携帯の中では焦燥に駆られた男がわめき散らしているが聞き流す。

「至急ってのはどういう意味だ? あのばかげた質問に答えたら娘を返してくれるのか? そうなんだな? ええ? おまえらいったい何のためにあの子をさらった? 金なら用意する。用意するから―――」

 そのあたりの判断は私のいる部署の業務ではないから答えようがない。携帯を耳からすこし離して罵詈雑言をやりすごし、嗚咽がはじまったところを狙って、私は口を開いた。

「では、1)の答えをどうぞ」

 ややあって、虚脱した声が答えた。

「……妻は吸わない。僕も煙草はやらない」

「2)ですが、アルコールやドラッグはいかがですか?」

「僕は酒を飲むが、妻は飲まない。ドラッグは二人ともやってない。そんなことしたこともない…」

「失礼ですが、奥さまは、まったく飲まれないのですか? ビールなどで乾杯もされない?」

「そのくらいはするだろう」

「娘さんの懐妊中も飲んでいらっしゃいましたか? 授乳中は?」

「飲んでない。もともと弱いんだ」

「3)に進みます。奥様が懐妊中に服用されていたお薬がありましたら、商品名と服用量を教えていただきたいのですが」 

 彼は問答によく耐えた。ひとつひとつ、回答が得られるたびに、私の気分はゆったりと、子供を失おうとしている相手に同情めいた哀れみを感じられるくらいにリラックスしていった。これは本当に大切な手順なのだ。調査が失敗すると、何もかもが水の泡になってしまう。

「30)、最後の質問です。お子さんの好物はなんでしょうか?」

「チョコレートと…スパゲティだ」

 打ちひしがれた声がつぶやいた。

「こんな、こんなばかげた質問が、どんな関係があるっていうんだ。あの子を俺たちのところに返してくれ…頼むから―――」

「貴重なお時間を割いていただきましてどうもありがとうございます。調査結果を検討させていただきます。ご協力感謝いたします」

「返せ! 金なら払うから俺たちのところにあの子を返して―――」

 涙声で喚く相手に構わず私は携帯を切った。


 オフィスが突然静まり返った。


 ほっとして、肩を揉みながら、PCに入力した調査結果を眺めた。レベル判定は別の部署がすることになっているので確かなことはいえないが、経験と勘から鑑みて、今夜のこれはたぶん最優良だろう。

 Excelシートで作られた検査表の最上段には個体識別番号が記載されている。さっきの男が喚いていた名前はどこにもなくて、かわりに10桁の番号がある。これは至急案件だから、明日以降社内のデータベースでこの番号を検索すれば、この製品の処理状況がわかる。

 安全な食品を食べたいという顧客の今風のニーズに基づいて始まったトレーサビリティ調査は、とにかく手間がかかる。きちんとした調査結果を出せなければ、肉を売ることはできない。調査状を送付するメールのテンプレートの末尾には「調査結果にお答えいただければお子様はお手元にお返しします」と書いてあるが、皮肉なことには事実はその逆だ。

 私は検査表から、今夜の肉のスペックをチェックした。この年頃なら肉に臭みもないし、脂肪などはとろけるような黄金色だろう。そう、私も楽しみにしていたのだ。ここで働いていると、社内抽選がある。人気の部位が取り去られたあとの端肉が格安で頒布されるのだ。社内の掲示板にアクセスして、抽選コーナーで今夜の肉の識別番号と自分の社員番号を入力して、私はPCの電源を落とした。

 コーヒーコーナーに立ち寄り、使用済みプリペイド携帯を廃棄ボックスに入れてから廊下に出ると、遠い切れ切れの悲鳴が階下から聞こえてきた。誰かが屠殺室で残業しているらしい。

 反射的に湧いたつばを飲み込んで、私は扉に鍵をかけた。