クリスマス雑感。

自分にとっては甥姪同然の、おさななじみの子供たちからのクリスマスプレゼントのリクエストが出そろった。ポケモンセンタートイザらスと本屋に行けばなんとかなりそうだ。あとは大人どうしのプレゼント抽選会に出す三千円相当のなにやらを調達しなければならない。息子はあいかわらずテレビの『グランツーリスモ』CFを観ては喜んだり落ち込んだり溜息をついたりしている。受験生にはクリスマスも正月もない。あのゲームを買うとしても、何もかもが終わったあとのことだ。

むかし、クリスマスといえば、ミサだった。

通っていた学校では、待降節に入ると、教室が並ぶ廊下のつきあたりの台に木彫りの聖家族+馬小屋+牛馬セットが飾られた。当日は足元がすうすう寒い教会に集まって、ワインをたたえた杯を頭をのけぞらせてぐっと干す神父様を見つめ、信徒である友人たちが薄い聖餅を舌の上にのせてもらうのを見守り、十字を切り、聖歌をうたった。クラスに戻ってから配られる小さなカードには、救世主の誕生を祝って歌う天使たちや目をつむって祈る幼いマリア様の御姿が描かれ、裏返せば見慣れた聖書の一節が刷られていた。

椅子は固く、神父様の説教は長く、退出時にはひとりひとり祭壇の向こうの十字架にお辞儀をして、やっと外に出ると空はたいてい灰色だった。

そのころのクラスメイトで幼児洗礼を受けた信徒である友人は、いま住んでいる地区の教会のお手伝いに行っている。ミサの仕度で忙しいころだろう。

先日猟銃乱射事件を起こした犯人も、カトリックの幼児洗礼を受けていたと聞いたときは複雑な気分になった。身勝手な殺人のあと、最期を迎えるにあたって教会を選んだのは、死後の免罪を神に求めたからだろうか。

しかしカトリックの教義では自殺者が天国に迎え入れられることは決してないし、そもそも殺人者にはべつの場所が用意されている。彼に死後の救済はありえない。『神曲』にあるように、その身が自殺者の森の樹の一本に変わったとしても、枝と化した指から犠牲者の血と硝煙の匂いが拭われることはないだろう。地上の償いは有限だが、暗い地の底では罰は永遠につづく。

信徒ではない自分でも、それくらいのことは知っているし、覚えている。彼は、教会に通いながら何も聞いてはいなかったのだろうか。子供向けにやさしい言葉で語られたであろう教義を何も心に残さないまま大人になってしまったのだろうか。なにやら割り切れない悔しさが残る。


Why do you say to me, Lord, Lord, and do not the things which I say?Everyone who comes to me and gives ear to my words and does them, I will make clear to you what he is like: He is like a man building a house, who went deep and put the base of it on a rock; and when the water came up and the river was driving against that house, it was not moved, because the building was good. But he who gives hearing, without doing, is like a man building a house on the earth without a base for it; and when the force of the river came against it, straight away it came down; and the destruction of that house was great.  --- Luke 6:46-49

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」 ―――ルカの福音書第6章46~49節(日本聖書協会訳)