No Tachiyomi, No Life.

今日の午後から悪天候になると、天気予報で聞いてはいた。だいぶ風が強くなってきた。洗濯物を外に出さなくてよかった。

ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話

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ニートとは書いてあるけれどセカンドライフを通じて収入があるようだから、ちょっと違うかも。いわゆるIT系自営業では?

彼女は、ネットには全てがあると信じていた。

だからこそ、外に出る必要性なども無いと感じていたのです。

それが、膨大な本に囲まれて、気が付いたようです。

ネットには、多くの人間が書評などを行っています。

誰かが言ったから買う、とか、Amazonで人気だから買う、とか。

そういう集合知によって発生する付加価値が、ネットにはほぼ必ず付いてきます。

Googleから検索するという、たったそれだけの行為でも、検索順位と言う付加価値が付いて回ります。

逆に本屋と言うのは、ほぼ全ての本が平等であり、どれを買うかは本人が調べ、考え、選び、そして購入に至ります。

本屋の面白さはここにあると私は思っています。

うーん、「ネットにはすべてがある」と信じられるのがすごい。ネットにそこまでの一体感を感じられる世代が登場してきているのか。

本に取り囲まれたときの圧倒的な幸せはよく知っているけれど、本屋でたったひとりで買う「面白さ」については、あまりに当たり前すぎて、考えたこともなかった。本を買うといえば本屋であって、いまだにネットで買うのにはためらいを感じる年寄りなもので。

書店で自分の嗅覚だけを頼りに本を買っていた頃は、前もって誰かのレビューや書評に触れる機会はなかった。ただただ、好みやフィーリングで探していた。ジャンルをしらみつぶしに読んで、好きな作家を探したりもした。

いま、中身の確認もせずにネット買いするときは三つのケースがある。

i)  著者の作品をまえもって読んだことがあり、その仕事に対して絶対の信頼を寄せている

ii) 自分と趣味が重なるネットの本読みのひとたちが勧めている/絶賛している

iii) 仕事や生活の必要に迫られて、時間もないので、ジャンル買いする

i)にあてはまる著者はとても少なく、またiii)の場合も、たいていは時間を捻出して大本屋に類書リサーチに赴く。つまりネット買いの本はほとんどがii)に当てはまる。ネットの評判を先に見かけて、ならワンクリックしておこうか、というわけだ。ネット書店とネット書評は、自分の頭のなかではイソギンチャクとクマノミのようにセットになっている。

きのう検討本として挙げた『フィンランド語のしくみ』についても、内容の面白さは折り紙つきのようだし(なにせ三上氏のお勧めである!)、自分も買う気まんまんでいるのだが、ワンクリはまだしていない。これから家を出て、本屋に寄って、そこで中身をぱらぱら確認して、そしてレジに持って行きたいという強い欲求があるからだ。学生街の本屋ならば揃えていそうだし、そこになかったとしても、心当たりの本屋がいくつかある。なければ、ワンクリだけれどw 

ネット書店で買うことに対する忌避感には、本だけはいくらでも買ってしまう自分への強い戒めも含まれている。これはリアル本屋でとち狂って(ストレスがたまりすぎて本屋に行ったときにそうなる。バーサーカー状態というかrun amok状態というか)予期した以上の諭吉を失うときのイタタな感覚を忘れたくないということで(笑)

しかし、こんなスタイルを子供のころからずっと保っていられるのも、大本屋に恵まれたエリアに住みつづけているからなのだろう。読んだこともないジャンルの、名も知らぬ著者の、でもタイトルや表紙が気になった本をさっと手にとって見られる幸せは、けっして当たり前のことではないのだと、よく覚えておこう。