水のひと粒として。

夏至をはさんだこの時期、一年でいちばん昼が長いといわれてもぴんとこないのは季節柄、雨が多いからだろう。今にも降り出しそうな空に太陽は見えない。涼しいようでいて動き回ると蒸し暑く、湿った髪はワイルドにひろがって収拾がつかない。水の微粒がいたるところで悪さをしている。

翻訳プロジェクトの打ち上げ予定が決まった。プロジェクトのスタートがこの時期で良かった。フルタイムで働いているときでごりごり残業していたら、とても手を挙げる余裕はなかった。あるいは自信の無さから尻込みして、そのままだったろう。参加希望のコメントを書き込むときは、横浜会議のときと同じバンジージャンプ的スリルがあった(笑)

なんとか飛び降りられたのは、生まれつきの好奇心と、英語に携わる仕事をしてきたものとしてすこしでも役に立てれば、という願いがあったからだ。

どんなに興味深い内容でも、英語で書かれているだけでアレルギーを示すひとは驚くほど多い。職員の全員が英語を話す環境から、自分以外誰もTOEICを受験したことがない職場に移ったときに、肌身でそれを感じた。力足らずなのはわかっていたが、その垣根を取り払う手伝いがしたかった。

小さな水の粒も、集まれば大地を潤すナイルほどの豊かな恵みとなる。世界中あちこちで始まっている試みによって、有名な古代アレクサンドリア図書館に優る人知の砦がネットワーク上に築かれる日も遠くはないだろう。

そんな連想がずっと頭にあって、図書館でたまたまいきあった内藤幸雄『アレキサンドリア、わが旅』(新潮社)を読み始めた。現地の言葉でエル・イスカンダリアと呼ばれるこの街は、タイムトラベルが出来たらいちばん行ってみたいところだ。本を通して、しばらくは時空と空間を自由に行き来する想像の旅を楽しめるだろう。