お腹が痛いから。


ある女性の話だ。

早朝、職場に行く前に、腹が痛くなった。

がんばって職場に行こうとしたけれど具合が悪くて、途中で引き返してきた。

それを見た母親は、その程度のことで仕事を休んではいけないと怒った。

しかたなく再び家を出て、離れた町の職場に出かけた。


その朝、職場のある町に、原爆が落とされた。


彼女は、一日たって自宅に戻ってきた。全身に火傷を負っていた。

傷はやがて黒く腐り、数日後には彼女の命を奪った。


これは知人の、仮にA氏とするが、彼の伯母さんの話だ。

A氏とその奥方はH県出身なのだが、奥方の御親戚にも、ほぼ同様のエピソードを遺して亡くなった方が居たという。

64年前の朝、何人の市民が身体の不調という形で惨劇を予感したのだろうか。

腹痛を訴える娘を再び職場に送り出した母親(つまりA氏のお祖母さん)は、そのことをずっとくやみつづけた。


この話は、A夫妻を含む約十人で出かけた日に聞かせていただいた。

A氏と、もうひとりが車を運転して、残りは便乗する形だった。

自分はA夫妻の車に往復とも乗せてもらった。

A氏は、出発時から、奥方が出かける前の晩に突然腹痛を起こしたのを気にしていた。上記のエピソードから、運転中に何かあったら困ると思ったそうだ。だから「今日はスピードを出さない運転を心がけている」とも云っていた。

実際には、往路でも、目的地でも、何の問題も起きなかった。

しかし復路ではすさまじい事故渋滞に出くわして、帰宅は深夜になってしまった。

途中でのんびりとサービスエリアに寄っていなかったら、つまり急いで帰ろうとしていたら、死亡者が出たその事故に、われわれも巻き込まれていたかもしれない。

ちょうどそんな時間の按配だった。

空を真っ黒に染めた雨雲の下、高速道路を十数キロ進むのに数時間かかった。

そのあいだ、A氏はいろいろな体験談を聞かせてくれた。

彼は、ほかのひとにはみえないものをはっきりと「視る」ひとだ。

母方に「視る」ひとが多いそうで、彼もその血を濃く受け継いだらしい。

彼が生まれたばかりのときには、見知らぬ老人が「お宅で生まれた男の子の掌を見せてほしい」とやってきたという。生まれたての彼の両手には、掌を一直線に横切る太い枡掛け線があり、それを見た老人は満足したように肯いて帰っていった。

手相は年々変化する。「右手はもう変わってしまったんですが」と云いながら薄暗い車内で彼が広げた左手には、まっすぐな線がくっきりと刻まれていた。何かで書いたような濃さだった。