Rest in peace.

十数年間可愛がっていた飼い猫を亡くした上司と、昼を食べた。

昼過ぎに誘いを受けたときは、実はもうパンを買ってあったのだが、猫を飼い、見送った経験があるだれかと話がしたいという彼女の気持ちは理解できたので、パンは持ち帰ることにして席を離れた。

彼女の猫は十二歳、うちにいた猫は十四歳で逝った。人間にすればかなりの高齢で、猫としては平均的な寿命だ。息を引き取ったときの様子、送ったときの様子を聞いているうちに、ひとにしろ猫にしろ死んだらどこに行くのだろう、あるいはそばにいるのだろうか、という話になった。

猫ではないが、ずっと飼い主のそばにいることを選んだ生きものなら知っている。

形が無くなっても可愛がってくれたひとのそばを離れない、それは犬だ。

友人の家に行くと、ときおり足音が聴こえる。出しっぱなしの爪が廊下の板を掻く音だ。うろうろと歩き回る気配は扉の隙間から部屋を覗く。愛する飼い主と居るのが誰なのかを見定めようとしているのだろう。人の背丈の半分ほどの、低い位置からの視線を辿って扉のほうを見ても、もちろんそこには影はない。戸惑うような気配だけが伝わってくる。看取られて二十年経った今も、主人を守ろうとしているに違いない。そう告げると友人はとても嬉しそうな顔をした。

だが、四年前に死んだうちの猫はもういない。彼女をとても可愛がっていた家族が川を越えて迎えにきて、引き取られて行ったのだと、そう思っている。気配が何も残っていないのだ。彼女はほんとうにきれいに消えてしまった。今年二歳になる二代目の猫も、生来の鈍感さゆえか、先代の存在を感じているようなそぶりは見せない。

見えないものは存在しないというのが世の常識であり、不文律である。だが想いというものはもとより眼には映らないものだ。その不可視の流れが人を支え、繋ぎ、育む、この社会の基本であることについて異存を唱えるものはいないだろう。

彼らの温かい毛皮、ざらざらした舌の感触を覚えている限りは、何も喪われることはない。

彼女の猫が安らかに過ごせますように。