ヘッセから始める。

塾から帰ってきた息子と話しているうちに、国語の物語文が本当にできないことに気づいて愕然。そりゃあ長い話が読めないわけだ。このままではまずいので、明日から短い話を読ませる特訓を始めることにした。その手始めにいま本棚から選んできたのは奥本大三郎氏の虫アンソロジー『百蟲譜』(平凡社)の中からヘッセの『クジャクヤママユ』。

親の趣味に走りすぎ? あーあーなにもきこえなーい。

 今でも特に美しい蝶を見かけたりすると、ぼくはあの頃の情熱を感じることがたびたびある。そんなときぼくは一瞬、子供だけが感じることのできる、あのなんとも表現しようのない、むさぼるような恍惚状態におそわれる。少年の頃はじめてのキアゲハにしのび寄ったときのあの気持だ。またそんなときぼくは突然幼い頃の無数の瞬間や時間を思い出す。草いきれのする乾燥した荒野での昼さがり、庭での涼しい朝のひととき、神秘的な森のほとりの夕暮どき、ぼくは捕虫網を持って、宝物を捜す人のように待ち伏せていた。そして今にもとてつもなくすばらしい驚きやよろこびにおそわれるのではないかと思っていた。そんなとき美しい蝶に出会い―――その蝶は特別な珍品である必要は全然なかった―――その蝶が日のあたった花にとまって、色あざやかな羽を息づくように開いたり閉じたりしているのを見ると、捕らえるよろこびに息もつまりそうになり、そろりそろりとしのび寄って、輝く色彩の斑紋の一つ一つ、水晶のような翅脈の一筋一筋、触角のこまかいとび色の毛の一本一本が見えてくると、それは何という興奮、何という喜びだったろう。こんな繊細なよろこびと、荒々しい欲望の入りまじった気持は、その後今日までの人生の中でもうめったに感じたことはなかった。(岡田朝雄訳)

いちばん好きな一節だ。今でもこの小品を読むと、虫屋としては胸の芯をぎゅっと握られるような切ない気持になる。中学の教科書に載っていた『少年の日の思い出』は、この『クジャクヤママユ』の改稿版との由。両作品の比較はこちらのブログに詳しい。

蛾を嫌うひとは多いが、翅の贅沢な厚みと輝きは…いや、このあたりでやめておこう。長くなるw

明日は小学生向けの読み物を探そう。


■19:41

「今度、学校で学力テストがあるんだよ」

息子がそう云ったのは先週だった。

度重なる塾のテストでうんざりしているのもあって、こちらも「ふーん、がんばってね」だけでスルー。

今朝、職場に着いてからオンラインニュースを見て、彼が云っていた「学力テスト」とやらが「プライバシーの侵害」などと裁判沙汰、ボイコット騒ぎにまでなっているいわくつきの学力オリンピックだったのに気付いた。遅…。

対象は小6と中3で、全国で約233万人。もともとは昭和初期の徴兵検査時に、成人を対象に漢字の読み書きや読解力を調べるための「壮丁教育調査」で、昭和41年を最後に取りやめになっていたものが、43年ぶりに復活したということらしい。ふむ、それだけの大規模プロジェクトで、個人情報の漏れが起きなかったら奇跡だろうな。もう受けてしまったから今さら何を云ってもしかたがないが。

数年前の入塾の説明会でよく聞かされたのは、学力の二極化に関する話だった。公立小学校はおちこぼれを作らないレベルを区分ラインとする一方、塾は難関中学入試を突破するために際限なく上を目指そうとする。結果的にその間の差はどんどん開いていく。さて、ではおたくではどうしますか、と塾は選択を迫る。お子さんをぎりぎりのところに置いておきますか? それとも? というわけだ。学校の教科書のあまりの薄さに不安を感じていた矢先だったので、勉強はさせておいたほうがいいだろうと思ったのだが…。

いま、六年生になった息子が塾で勉強してくる内容は、ますます難しく細かくなっていく。学校ではこれからやっと始まるはずの日本史もひととおり終わって、こちらにとっては歴史とさえ呼べないバブル期やコイズミ改革まですでに学習済みだ。大して成績がいいほうでもないのによくついていくなあと思うが、友達と勉強するのは楽しいらしい。ううーん…。薄すぎず濃すぎない公立の教育ってのはいつになったら実現するんだろう。