理性から経験と手仕事の知へ。

平山氏の『ミサイルマン』を手に取りかけて、思い直して山本義隆氏の『一六世紀文化革命』を持って出た。

ルネサンスから科学革命へと至るヨーロッパ社会の構造的変遷を、よく語られてきた美術史や思想史の視点・文脈ではなく、技術史や科学史を通して当時の「知の世界の地殻変動」として捉えようとする本である。

著者の山本氏は元東大全共闘議長。その頃地上に存在していなかったので、自分にはあまりセンセーショナルに響かないのだが、その年代のひとたちには有名人らしい。wikiには「学生時代より秀才でならし、大学では物理学科に進んで素粒子論を専攻していた。山本が当時の国内留学先だった京都大学基礎物理学研究所での研究生活を放り出して全共闘運動のため東京に舞い戻ったことに対し、所長の湯川秀樹が悲嘆に暮れた」という記述もあった。

序章で述べられているのはエリートによる知の独占と技術者軽視である。ギリシャなどでは労働や工業技術の担い手は奴隷であって、自由民がその賎しい仕事に携わることはなかった。かれらの残した古典を素養として受け継いだヨーロッパでも状況は同じで、学問はラテン語をあやつる知的エリート階級のものであって、手仕事を生業とする技術者や職人は学問とは無縁の徒として蔑まれていた。ここからの大転換が、これから詳解されていくようだが、このあたりは日本とだいぶ違うなあ、と思うのは、最近『千年、働いてきました』(角川新書)を読んだからだ。

支配の仕組みとして士農工商の枠はあっても、日本では職人の技術と手仕事は尊ばれ、愛されてきた。鉄人やカリスマ美容師やパティシエなどという「称号」と彼らの並々ならぬ情熱や自負も、その延長線上にあるのではなかろうか。『千年…』では、そのような職人/技術集団に支えられて、姿やありかたを変えながらも古い命脈を保つ老舗の例を取り上げていて、興味深かった。

さて、この『文化革命』は、山本氏の前著『磁力と重力の発見』を補完するものでもあるようだ。ううっ、『磁力…』全三巻のうち、二巻と三巻は資金不足で買えないままになっている。でも読めばこれほど面白い科学史本もないのはわかっている。うぬぅ、資金が足りない。でも『ク・リトル・リトル神話体系』よりはやすいやすいあんずるよりよこやまやすし~(自己暗示をかけているらしい)。国書とみすずは、ほんとに血も涙もないbloodsuckerだ…。みすずといえばホワイトヘッドポパーもちゃんと読んでないので、図書館大明神のところに詣でないといけない。積読山脈の向こうにはまたはるかな未読山が…。