わたしを束ねないで
あだ名とそれが喚起するイメージ、その意図せぬ怠惰と暴力についてのエントリを目にして、しばらく考えていた。自分はなんと呼ばれようとあまり気にならないので、その鈍感さが予期せぬ災いを招きそうで、すこし怖くもなったのだ。
今朝の新聞広告*1で目にした清新な詩にその答えのいくばくかがあるような気がした。忘れないためにここに引く。
わたしを束ねないで
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き(はばたき)
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮(うしお) ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
詩集『わたしを束ねないで』(童話屋刊)より