わが名は数多なり―――「自主的多数派」

マルチチュード』に突撃。国際政治学の講義の副読本みたいでなつかしい。『虐殺器官』の世界観/戦争観を読み解くテキストにもなりそうだと勝手に思った。正剛先生によると、マルチチュードという語はスピノザに由来するのだそうだ。序文によると「本書は哲学書」で「戦争を終わらせ、世界をもっと民主的なものにするための取り組みの例を数多く示」すことで「新しい民主主義のプロジェクトがよって立つ概念的基盤を打ち立てる」のが目的とか。下記は世界を概観して語っているのだが、日本の現状とも重なるところが多い。

新自由主義的なグローバル秩序形成の失敗は、世界の貧者と富者の無残なまでの格差拡大にもっとも明白に見てとれる。経済的カタストロフィーのもっとも正確な尺度は、常に人間の苦しみにある。新自由主義は合衆国の単独行動主義と同様、歩く屍となったのだ。現時点ではまだ足で立ってはいるが、その生命力はすでに潰えている。(上巻p.5より引用)

自分が政治学を学んだのはフランシス・フクヤマ氏が華々しいデビューを飾った頃で、彼がのちにネオコンの論客になるなんて想像もしなかった(今はもうそちらの路線から離れてしまったというけれど)。仕事その他に溺れて思想の潮流を追う努力を放棄してしまったのは失敗だった。ただでさえ積読が山を成しているのに、遅れをあとから取り戻すのは大変だ。というかもう無理。

とはいえ、古巣を離れてもそちらに対する興味がなんとなく持続しているのが意外だ。まがりなりにも四年間勉強した効用なのだろう。結局専攻したのは違う方面だったからあの領域について詳しく語る言葉は持たないが、読むのは楽しいし、好きだ。おかしいなあ、ぜんぜん趣味じゃないんだけれど。小説とはまた違う部分が刺激されて老化防止になるかも(笑