きれいはきたない、きたないはきれい。

三上氏のところで中山氏が書かれていた言葉、「数が必ずしも価値を表すわけではない」について考えながらCOCOさんのところに行き、きらわれものの蜘蛛の写真をブログにアップするときの逡巡が書かれているのを読んだ。

実際、嫌いな人にとっては六本脚も八本脚も変わりがないのだろう。はじめからろくに見もしないのだろうから。

虫を愛するものは長じるにつれて、自分の趣味が表立って口にすることができない方面に分類されていることを周囲から思い知らされる。男性ならともかく女性の場合は「それはありえない趣味」とまでくさされる。

そんなふうに、一般の常識や嗜好と自分の嗜好が完全に食い違っている、また排斥されているのが常態になれば、数と価値を等価で結ぶことなど最初から考えなくなる。

対象の価値を測るのに有効なツールは、個々に備わった感覚のものさしだけだ。そして他者のものさしに自分のものさしを当ててみても意味がない。

数は割合や傾向を示しはするが、それ以上のものではない。

対象と自分。価値を考えるとき必要なのはその二者のみ。

石がダイアモンドで葉っぱがお札。あるいは王様が奴隷で奴隷が皇帝。本来は個人の内面にとどまるしかない価値の基準や自由な逆転を、遠慮なしに披露できるのがネットの面白さではなかろうか。