『The Atorocity Archives』雑感。
昨年末から読んでいた『The Atorocity Archives』表題作をゆうべやっと読了。時間かかりすぎ。途中でCSIノベライズに浮気したのと、あとはストロスの文体になかなか馴染めなかったのが災いした。
読めそうなネタならばペーパーバックで読もうとする理由は二つある。
i) 翻訳版は、たいてい数時間~一日で読了するので、あっけなくて淋しい。
ii) 原書は上下巻などに分かれていないから場所をとらないし価格も安い。
ii)は特に重要。文庫本一冊千円で上下なんて、ビンボー人にはとんでもない出費。ハードカバー上下なんて問題外。読書ってそんなに贅沢な趣味になっちゃったんですか(しくしく)
この本の邦訳も、価格とかさの張るハードカバーで出るということだったので原書に逃げたわけだが(情けなや)、ペーパーバックでSFを読むのは初めてだ。不安はあった。ミステリならば、これまでもアメリカ作家やイギリス作家の作品を読んできた。最後に明かされる謎を追って読み進めるのに苦痛はないのだが、SFは用語やガジェットや特殊設定に引っ掛かったらさくっと挫折しそうで、買いにくかった。しかしそんなことを云っているとせっかく好きなジャンルなのにいつまでも手が出せない(笑)
その点、この作品はなじみのクトゥルー+スパイの入ったネタで、苦手のハード系(文系なもんで)ではなさそうだからなんとかなるかもしれないと思って、原書購入に踏み切った。
それは正しかった。最初のほうの長いだらだら坂を過ぎるころには文体にも馴れて、エンジンがかかり、最後まで読みきることができた。ほっとした。同時収録のヒューゴー賞受賞の中篇『Concrete Jungle』には余裕をもってのぞめそうで嬉しい。
でも、なるべくなら日本語で読みたい。このまえ、本屋で邦訳版ハードカバーをぱらぱら見たときにそう思ったのも事実だ。
邦訳版には、単純に文章が日本語になっているだけではない素晴らしさがある。同じ内容なのに情報量が桁外れなのだ。英文からの平板な直訳ではない、著者の意図を汲み取るために選びぬかれた日本語と、漢字+ルビ、アルファベットの原語+発音のルビなどを使って自由に同時並列される数種類の情報を通して脳内に構築されていく物語の伽藍の精密さ重厚さは、英語で読んだときとはまったく違っている。うーん、まあ、自分のアレな英語読解力と背景知識の不足がいけないのだとは思うけれど。
多層的な内容を視覚に訴えるようにして一行の文に仕込むことができる日本語表記の特質は、確実に原作を膨らませてくれる。
これは、超ベストセラー『ダ・ヴィンチ・コード』のペーパーバックを読んでいるときにも感じたことだ。『Angels&Demons』を怒涛の勢いで読みきって『The Da Vinci Code』に突き進み、同じ時期に相方が読んでいた邦訳版を見せてもらって、いかに自分が漢字の喚起する記憶とイメージによりかかって本を読んでいるかに気づいた。
母国語の言葉はひとつひとつが扉だ。本を読むときは皆意識せずに文字と同じ数だけある扉を押し開き、その奥に連なる無数の蓄積イメージを参照している。*1
正確さと期限とがすべての実務翻訳方面にいた人間からすると、文芸翻訳ってのは職人芸を超えたクリエイターの域に達しているんだなあと感じ入った。*2 それだけ翻訳にも手間がかかっているのだから、日本語版の価格がアレとか文句を云ってはいけないのもわかっているのだが、財政的にきついことはきついのでつい。ああ、またぶつぶつ云いながら原書買っちゃうんだろうな。図書館さま、助けて。