戦時遺跡のある街。

 年うつり日吉が開設されてから10年を経過した昭和19年、太平洋戦争が熾烈となり学徒出陣や勤労動員で教室に空きが出てきたので、文部省の指示に従い慶應義塾では日吉第1校舎、寄宿舎等を海軍に貸与することとなった。海軍との賃貸借契約では19年3月10日からとなっているが、関係者の証言によると2月からという(『平和への願いをこめて』慶應義塾生活協同組合編)。

 日吉に移ってきた海軍の内訳は第1校舎には軍令部第3部、人事局、建設部隊等、寄宿倉は連合艦隊司令等がまず入り、後には海軍総隊司令部や航空本部等が移転して来て、海軍の最重要作戦の指令は日吉で決定されていた。

 移転直後から海軍は校地の地下に堅固な地下壕を突貫工事で建設し、連合艦隊司令長官の指令は、実は日吉のアナグラの内から発せられたものであった。神風特攻隊が初めて出撃したレイテ作戦の命令も、日吉の地下壕から発せられたというから、軍隊の最も醜い部分を今に残す記念物と言えよう。

89 日吉台の地下壕/ 慶応義塾豆百科

大本営がある横須賀軍港に近かった、無線の受信状態が良かったなど、いろいろと好適条件が揃っていたらしい。

このような過去のために、付属高校とその近辺では、いまも当時の制服姿のままのナニヤラが出没するという話には事欠かないと、当該高出身の友人たちから聞いたことがある。この「日吉台地下壕」を巡る見学会もあるので、一度は申し込んでみたいなとも思うが、結局は二の足を踏んでしまう。

というのは、下記のような経験があるからだ。

東急東横線日吉駅の東口からこの大学の敷地内へとまっすぐ続く銀杏並木がある。春から夏にかけては真緑に燃え、秋には見事な金色に染まるその路に沿って、巨大なガラス張りの新研究室棟「来往舎」がそびえている。

その場所にはむかし、見るからにくたびれて古い木造校舎が建っていた。あまりに老朽化して講義で使われることもなくなったのか、文系学生サークルの長屋兼荷物置き場と化して、入っている学食には近所の住民も混じっているような、あまり緊張感のないところだった。

友人たち(女性と男性、半々くらいずつ)と、その校舎に入ったときのことだ。

みんなで何かをとりにいったのだと思う。詳しいことは忘れたが、時間はもちろん大学が開いている真昼間である。

わいわいと騒ぎながら物が並んで狭くなっている階段を上がっていった。目的の部屋に入ると、薄暗さが気になった。室内の空気はこちらの肩を押さえつけるように重い。ふだんは頭痛とはまったく縁がないのに、すぐにこめかみが鈍く疼きはじめた。頭を押さえて足元を見下ろすと、真っ黒に煤けた木張りの床下からは、たくさんのひとが唸るような、あるいは、どよもしともつかない声が「聴こえて」くる。それに合わせるように、床が突き上げるように震えるのも感じられた。

「声」と「揺れ」はどんどん酷くなっていくようだった。

地震…?」と誰かが云ったが、男性陣は、何も揺れていないよと首を横に振る。対する女性陣は次々と自分と同様の不快感を訴えて、最後にはみな走るようにして校舎の外に出た。外に出ると症状は一気に軽快した。

校舎はのちに壊された。

見る力に優れた友人によると、瓦礫の山と化した現場からは長い間、黒くねじれた煙に似たものが上がっているのが「見えた」そうだ。「何かはわからないけど、煙とは違うのよね。気持ち悪かったよ。地下に何か棲んでたのかな」との由。

今もときおり、用事で日吉の街にいくことがある。

改札から出てすぐに見える銀杏並木は、あれから年を経てますます美しい。