無意味なものと不気味なもの

無意味なものと不気味なもの

予想よりもはるかに面白く、あっというまに読了。

何かの新聞のエッセイで、春日氏が「もし皿回しをものすごく完璧にやってのけたら、もしかしたら永遠に回し続けることが可能ではなかろうか。いまこうしている間も何処かで永遠にまわり続ける皿があるかもしれないと考えると不安になる」云々というような内容を書いていて、そういうことを考える御仁なのか、と瞠目したことがあった。

数々の「不穏」な小説を触媒として列挙される氏の経験(彼は精神科医である)や記憶、夢想は実に興味深い。現実の些細な事物を契機にとっぴょうしもない状況を妄想することは、彼にとっては息を吸って吐くように自然な行為のようだ。

ラヴクラフトについてはこんなことを書いていた。メモとして残す。

 彼は太古の邪神たちをモチーフにしたクトゥルー神話(Cthulhu Mythos)というジャンルを作り、そこに仲間や後輩が参画して壮大な暗黒神話体系が作り上げられた。そのようなマニア的交流や、参画したメンバー(弟子と呼ぶのが適当か)からそれなりの作家が輩出したこともあり、むしろ死後にラヴクラフトの名声は高まっていった。

 研究書が出版され、ファン・クラブが組織され、本邦でも全集が出されている。怪奇作家としては、破格の扱いである。

 では彼の小説は、どれほどの質であったのか。文豪と呼ぶに値するような作家であったのか。文学碑が建てられたり、生家をツアー客が見学に来たり、作品が国語教科書に載ったりしたのか。文学部の研究室でテキスト分析がなされるような作品群が産み出されていたのか。

 あらためてそのように問われれば、ラヴクラフトの評価はなかなか微妙なことになる。愛すべき作家ではあるが、所詮はある種のB級作家と呼ぶのが妥当であろう。(p.83より)

 で、ラヴクラフトの場合、彼はかなり純朴に読者をぞっとさせることを目指していたような気がするのである。そのぞっとさせる働きかけは、つまり多少屈折した親愛の表現に近いのではないか。彼は若い作家たちの作品(もちろん怪奇小説である)に丁寧な添削を施していたそうだが、ここをこうするともっと恐ろしさが倍加しますよといった類の、まことに微に入り細に入ったものであったという。「この世のものならぬ」なんて平然と書くような作家に添削をする資格があるのか疑わしくはあるものの、原稿用紙を介してのスキンシップというか親密さは彷彿としてくる。

 こうして書き進めながら、わたしは自分もラヴクラフトの添削を受けてみたかったなあと本気で思うのである。決して揶揄で言っているのではない。孤独な者同士のつつましやかな交流手段として怪奇小説の創作というものがあったなら、これはこれで心が慰められるものであったろうと思う。作家もまた読者である以上、恐怖を与えるための具体的な技術論を語り合うことは、まことに心温まる営みに違いないのである。(p.95より)