Songs of Innocence and of Experience

 広げた雑誌の頁ぎりぎり、視界の周縁をかすめた影になぜか注意を引かれた。

 反射的に文字から逸らした視線の矢で、あやまたず、すぐ横の通路を歩いてきた人型の的を射抜く。

 二十代半ばの、眼鏡っ娘だ。生地の柔らかそうな黒い膝丈ワンピースにグレーのロングケープを肩からかけて、胸にはナバホジュエリーに違いない銀とトルコ石の円盤ペンダント。身を包む暗色が、フレームの陰でくっきり濃い眉とよく調和している。

 それが誰かに気づいたとたんに、心臓が跳ねた。

 それまで追っていた小説のストーリィを上書きするようにして意識を占有したのは、あちらに見つかる前にここを離れたいという衝動だった。心の水底に刺さっていたものが、剥きそこねたささくれのように疼いて、思わず雑誌を閉じる。いやいや、何も悪いことをしたわけではないのだからその必要はないよ、といつもの自分が唸る声も聞こえるけれど動揺は消えなかった。

 閉じた雑誌を平積みに戻して隠密逃走を図るか、もう一度開いて図太く記事を読み続けるか。いつもの自分はもちろん、早く先を読みたいと強固に主張している。だが―――即座にどちらの行動も選べず、慌てた気持ちがそのまま挙動不審につながって、わたしは、そろって項垂れて視線を下に落としている立ち読みの獣の群れの中で異質な動きかたをしてしまったらしい。

「あれ。こんにちは。お久しぶりです」

 珍しく向こうから挨拶されて、わたしは観念した。どちらにしろ見つからずに逃げることは無理だったろう。最近はどこにいても、なにをどうしても、目立ってしまうのだ。腹まわりのサイズ的に。

「ひさしぶり。稀覯本マニアのあんたが新刊書店に現れるなんて珍しい。何探しに来たの?」

 云いながらわたしが厚い文芸誌を棚に戻すのを、彼女は流し目で追った。相手が何を読んでいるか、必ずチェックするのが本読みの習性だ。どんなジャンルでもそれは変わらない。逆に相手が手にしている本を一顧だにしない人間ならばたいがい読書という悪癖とは縁がない。

 雑誌の表紙に並んだ作家名や作品名を走査し終えて、切れ長の眼がこちらを見た。

「もちろん偵察ですよ。ここの本屋、海外棚の品揃えがマニアックだから。新刊の内容チェックしにきたんです。今日はもう見ました?」

 わたしは首をふった。

「来てそのままここに引っ掛かっちゃったから」

「じゃあ見ますか、今から」

 彼女は眉と視線を動かして、奥の棚のほうを示した。

 どうしたんだろう。ふだんこうして誘ってくるタイプではないのに。まわりに居る他の若い本読みの娘たちとくらべると、彼女はいちばん単独行動に馴れている。よきにつけ悪しきにつけ、ひとはひと、自分は自分、の原則を完全に貫くことができるのだ。KYなんて言葉は知っていても実行したことなどぜったいにないはずだった。

 このシチュエーションでは逃げることもできない。表情は変えないまま、いろいろと諦めて、わたしは彼女の後に続いた。

続いたらまた。