日常が破れるとき。

昼すこし前。ほどよく空いてきた胃を意識しながら、PCを睨んで午前中さいごの追い込みをかけていたときだった。

バインダーが何かにぶつかって派手に散乱したような音がした。自分が座る机列のいちばん向こう側、明るい窓際のほうからだ。書類収納チームが分厚い書類バインダーを満載した台車を押しているのはよく見るので、そういう台車がゴミ箱にでもぶつかってコケたのかと思って、そちらを見た。

視線をPCから外した途端に、周囲の異様な雰囲気に気づいた。「音源」に近い同僚たちが立ったり座ったり、その瞬間のポーズを維持したまま、凍りついたようにそちらを見つめていた。

フロアのチームリーダーの女性が血相を変えて、部屋から駆け出して行くのを見送って、隣の同僚女史とほぼ同時に立ち上がった。動かないひとびとの間を抜けてそちらに近づいた。

窓のすぐ手前、机の横の床に仰向けに寝転んでいる人影が見えた。

隣のチームの小柄な男性社員だった。眼鏡の奥の眼は開いたまま裏返りかけて、何も見ていない。時折身体を引き攣らせて、低く唸り声を漏らしているようだ。唇の両端から細かい泡まじりの唾液が流れていく。

「後ろ向きに倒れたよね。頭打ってない?」

急病人の傍らにかがみながら同僚女史が声を張った。彼女だけが普通に動いていた。膝をついて、青年のワイシャツの襟元を緩めていく。

「そこの消火器に、わりと思い切りぶつけてたかも」「音がすごかったし」

その瞬間を見ていたらしいひとたちが口々に答えた。

「そう。じゃあ下手に動かせないね。靴脱がせて。倒れてからの時間を計ってくれる?」

最後の指示は自分に向けられたものだったので、壁掛けの時計を見上げた。時間を覚えてから、自分もかがんで、彼の顔から眼鏡を外した。

「仰向けのままだとよくないんじゃ?」

誰かが云ったが、女史は強く首を振った。

「素人には動かせないよ。頭打ってるから」


産業医が呼ばれ、救急車が呼ばれ、青年社員はチームリーダーにつき添われて病院に運ばれていった。


聞けば、彼は以前、残業中にもこういう人事不省状態に陥ったことがあって、そのときに居合わせたのが遅くまで残っていた同僚女史+数人だったのだという。さらにいえば、女史は御家族の看病経験がある。その経験が、危急のときに動けるか動けないかの差を分けたのだろう。

すこしして意識が戻って、救急車を待つあいだ、青年くんは産業医の質問にとんちんかんな答えを返していた。あれが「発作」だとしたら、本人はもしかしたら馴れているのかもしれないが、倒れるときの状況によっては致命的な外傷を負いかねない。とくに痙攣が或る程度長く続くと呼吸がうまくいかず、脳によろしくないらしい。だから時間を計らなくてはならないのだ。

仕事の関係で、あの症状と経過については手元の書類で毎日見ているが、実際の現場に遭遇したのは初めてだった。

ひとり暮らしであの状態になっても、救急車をすぐに呼べない。

いや、家族が居ても、クリティカルな瞬間に居合わせられないかもしれない。

「すごく不安になっちゃった。実家の両親とか、ひとりのときにあんなことになったら」

年若い同僚が声を落とした。