To Build a Fire、追うものと追われるもの。

雑誌『Coyote』no.16読了。

柴田元幸氏の新訳でジャック・ロンドン『火を熾す(おこす)』を読むことができてよかった。

だがこうした、延々とのびる神秘的な道も、空に太陽が出ていないことも、すさまじい寒さも、そうした何もかもの不思議さ奇怪さも、男には何の感銘も与えなかった。もう慣れっこになっていたからではない。男はこの地では新参者(チェチャーコ)であり、これがここで過ごす初めての冬だった。男の問題点は、想像力を欠いていることだった。人生の諸事を処する上では迅速であり抜かりなかったが、あくまでそれは具体的な事柄に関してであって、それらの意味については頭が働かない。華氏で零下五十度といえば、氷点の八十何度か下ということである。その事実は「寒くて不快」という思いを男の中に生じさせたが、それだけだった。そこから発展して、体温を有する、一定の暑さ寒さの狭い範囲のなかでしか生きられない生き物としての自分のもろさ、あるいは人間一般のもろさに考えが至りはしなかったし、さらにそこから、不死であるとか、宇宙における人間の位置であるとかいった観念の領域に思いを巡らすこともなかった。零下五十度とは、痛みを伴う凍傷を意味し、手袋や耳覆いや暖かい鹿革靴(モカシン)や厚い靴下によって防衛する必要を意味する。男にとって零下五十度は、まさしく零下五十度でしかなかった。そこにそれ以上の意味があるなどという思いは、およそ脳裡に浮かばなかった。

厳しいカナダの自然のなかを往く男。想像力の欠如は最悪の結果を招く。マッチも持てず、雪の中でゆっくりと凍えていく描写がリアルだ。

id:elmikamino氏の示唆によって気づいたが、たしかに、ここのブログのタイトルは墓碑銘には良いかもしれない。何者でもない主の姿はそもそも無い。何を意図してか、雪や泥を踏み荒らして動き回ったらしい跡だけがしばらく残り、やがてあとかたもなく消えていく。

偶然だが、別の場所ではタイトルにtrackerという語を使っている。これは動物の残した跡trackを追う狩人を意味する語である。

追うものと追われるもの、さて、どちらがより自分の本質に近いのだろう。命名するときはとても適当に選んだはずなのだが、案外そういう切り口から内奥がのぞいてしまうものらしい。