詩人の言葉を味わう。

気になる文を見つけたのでここに引用する。言葉使いとして生きるひとの言葉を味わうためでもあった。句読点の使い方や文章の繋げかたが自分とあまりに違っていて、写している間ずっと波に揺られているような心もちがした。

追悼・島尾ミホさん 吉増剛造

 島尾敏雄夫人ミホさんが、春三月、浜ではきっと大潮の日に、とうとう、――独り倒れて、鹿児島県奄美市名瀬浦上町のお家で、亡くなられたと聞きましたときに、たとえばわたくしの貧しいこころのスクリーンに、洗っても洗っても消えないしみのように浮かんできていた、シーンのいくつかを、亡き人の面影をそこに浮かべる「咄嗟の映画」のように、紙上に襲(かさ)ねるということをさせて下さい。

 ひとつは敗戦直前の渚での光景で、おそらくだれもみているひとはいない、――奄美の、加計呂麻(かけろま)島の呑浦(ヌンミュラ)で、二十八才の特攻隊・震洋隊の若き隊長であった島尾さんとの逢引きのとき、――昭和二十年のおそらく夏の昼下がりだったのでしょう、恋人のミホさん(そのとき、二十五才)は、青年海軍士官敏雄氏は、砂に脚を投げ出したのに、ミホさんは敏雄さんと並んで座って、正座をしていたというのです。正座してみている海……想像が出来ますか? わたくしたちもまた畳に座って居るとき、こんなふうにして、まったくちがう姿勢で、そうしてたった独りで、海をみているかも知れないのです。

 戦後文学の異様な傑作『死の棘』を映画化された名匠小栗洋平氏も、映画の冒頭で南島の垣根をみごとに立てていた。無意識(ジグムント・フロイト)や生命指標(折口信夫)よりももっともっと深い、誰もかつて触ったことのない海の底の岩の感触、その生の棘、光の棘を、わたくしたちに伝えてきたのが、ミホさん、貴女と敏雄氏、お二人と子供たち……そのそばに居た(「読者」というよりも……)わたくしたちを巻き込んだ、……かけがえのない、お二人の生涯でした。

 縁あって、小文を読んでおられるでしょう読者の諸氏に、絶版の『海辺の生と死』、『祭り裏』、そして『死の棘』や『死の棘日記』を、眼にして下さることを、切望しつつ、わたくしも、亡くなられてから読み返しました、そうして、はじめてみえてきていました、ミナミのシマの美しい少女の痛みと足に刺さる棘、海底の感じを、みなさまにつたえてみたい。

 絶筆だったのでしょう、『御跡慕いて』(「新潮」二○○六年九月号)で想起されたかつてのミホさん、必死で恋人に逢いに行く若い娘の立ち泳ぎ……、そして、海底の石ころの音、うごめき、……。ときおり海の底にさわっては浮かび上がる少女の姿が、言葉を喪くして死んでいった、お嬢さんのマヤさん、また、波間で立ったまま亡くなられたというミホさんのお母上の姿と襲なっている、これが海の底の誰も触ったことのない道でした。

 ミホさんの訃報を聞いた夜に、與謝野文子さんと晶子さんのことを、次の日には多和田葉子さんと、来るべき文学のことを語りあいながら、島尾ミホさんに話が及んで、心粛然とした。全身恋の人とも、太古からのシマの習俗の人というのもちがう。棘のひと、光の棘のひと逝く、……巨きな戦いがとうとう終わった、……あるいはとうとう始まった……といえば、マヤさん、お孫さんのマホさんも、肯いて下さるのではないか。だれも知らない足の裏の痛さ、光の棘だった、ミホさん、貴女は。

―――平成19年4月3日(火曜日)読売新聞夕刊より