シギと鯨。

ネットを渉猟して、吉増剛造氏の著作を調べて図書館に予約を入れた。

『In-between11 アイルランドー刹那の眼、沈思の穴』(オシリス)

『「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」』(集英社)


「渉猟」からはいつも wade という語を連想する。これは本来「水の中を歩いて渡る」ことを意味する。自分にとって、ネットを巡る行為は、表層をすべっていく surf よりも、シギやチドリなどの渉禽類 wading birds のようにページの上を一歩ずつ歩いては、くちばしで波打ち際の砂に潜む虫や貝をつつき出すイメージに近いからだ。ピンポイントで狙ったものを拾えるものの、ちまちまと時間のかかるこの作業と比べると、ネット検索は強力な底引き網だが、キーワード次第で拾えるものが違ってくる。キーワードと同音価のものはゴミでも拾ってくる一方、キーワードの「近似値」、言葉とイメージのゆらぎと越境を許さない。

最近では底引き網そのものによって拾われてくるものも操作されている。検索サイトにお世話にならない日はないが、ネットにおける出逢いのセレンディピティを尊ぶもののひとりとしては、これはなんとなく気に入らない。また、系統と背景を知らずして情報のみを入手しても、関連付けがなければそれは死んだ貝殻以上のものにはなりえない。

顕微鏡下で行われる誘導手術のようなネットにおける調べものに対して、昔ながらの読書は、巨大なクジラの食事に似ている。あたりの海水まで一息に吸い込んで、ひげで漉しとった微細アミやプランクトンだけを舌の上に残す方法だ。時間と手間はかかるが包括的で、うまくすれば意図せず得られるものも多い。

人が情報をつまむ「くちばし」、また漉し取る「ひげ」とはいわば嗜好であり、個性であり、そのひとの背景である。

だからネットで何かを書くのは怖いのだ。経験に裏打ちされた眼をもつひとには、移り気なくちばし、貧弱なひげの裏にある情報的な盲点、人間的なコンプレックスまで見透かされてしまうだろうから。