社会科学的に見た「初音ミク」

■読売新聞2007年10月17日朝刊より

ウィークリー時評 「電脳歌手」登場 職失う「並」の才能

鈴木謙介

国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員・理論社会学)

 ネット上の流行はめまぐるしく移り変わるものだが、この数ヶ月、一部のユーザーの間で持ちきりになっているのが「初音ミク」という少女の話題だ。

 少女といっても、現実の存在ではない。彼女は電子合成音声で歌うバーチャル・ボーカリストなのだ。パソコンの画面上でメロディと歌詞を入力すると、その通りに歌ってくれる「初音ミク」は、童謡の替え歌からオリジナル曲まで、動画投稿サイトを中心に大活躍中だ。そのおかげもあって、彼女はソフトウェアとしても、発売から数ヶ月で一万本以上の大ヒット。ネット上では「ネットがプロとアマチュアの境界を崩す兆候だ」とか「もう人間の歌い手はいらない」といった議論まで飛び出している。

 IT化によってプロフェッショナルの役割は終わるという物言いは、過去十数年、何度となく繰り返されてきた。ギターを弾くのも、映画を作るのも、ニュースを見るのもパソコンとネットを使い、プロを介在させずにできるようになるというのだ。しかし、物言いの勇ましさに反比例して、この種の議論は何度も同じことを繰り返すだけで、実際にどのように社会が変わったのかについては教えてくれない。いつか来る理想の未来像について、何年も同じ事を述べ続けているだけなのだ。

 社会科学の知見に従えば、IT化によるダウンサイジングや専門技能の電子化で、熟練技能職が不要になるという見解は誤りだ。むしろそうした技術を用いる高度なスキルを持った人々に資源が集中する一方、中位の技能職に就く人々の職が失われると考えられているのである。初音ミクの例で言うなら、彼女が登場したところで、ものすごく上手なボーカリストの仕事はなくならないが、あまり巧くない代わりに安く雇うことのできたボーカリストは、仕事を失う可能性があるということだ。実際、初音ミクくらいのクオリティで歌わせることができるなら、楽曲を完成させる前の「仮歌」の段階であれば、わざわざお金を払って人を雇う必要はなくなるだろう。

 長期的に見ればこうした傾向は、音楽の分野に関する限り、アーティスト志望の人たちの「下積み時代」を、より厳しいものにしていく可能性がある。最初から天賦の才を持っていて、華々しくデビューできるのでない限り、音楽で仕事をしようと思っても、「その程度ならパソコンでできるから」と言われてしまうのだ。現場で経験を積むことが重要な世界ほど、その影響は大きくなるだろう。初音ミクの電子の声が、創造の世界を変えていくとすれば、私たちもそれに合わせて未来を考えていく必要がある。

音姫の歌は聴くばかりで、自分で歌わせようと思ったことはなかったので(その作業の途中でたぶんキレる音痴)、ブームを傍観していたのだが、上の記事を読んでちと考えた。

仕事のフィールドである翻訳業界で考えると、最初から下訳がばっちりこなせるバーチャル・トランスレーターがデビューしたようなものだ。*1

インストールしたその日から中堅くらいには使える優秀なソフトが普及してしまうと、なるほど、下積み期間が必要な新人さんが割り込むのは難しい世界になってしまう。「最初から天賦の才」があるのはジャンプ漫画の主人公くらいのもので*2 翻訳上達でものをいうのは訓練と習熟だ。しかし技術を磨く時間が与えられないとなると、人間にはもう太刀打ちできなくなってしまう。経営陣はコストと納期が削減できて大喜び。世間のミドルランク以下の翻訳者にも大打撃。ううむ、ほんとうだ、暗黒の未来が待っているような気がしてきた。

実際は、以前ここで書いたとおり、MTこと機械翻訳の能力はまだまだ低いので、すぐにはそんなことにはならない…といいのだけれど。

追記:Wikiの当該項目(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%AF)、削除提案が出ている。優れたソフトなのに、どうしたんだろう? このまえの騒ぎの関係か?

追記2:10/19に確認したところ、Wikiの項目は復活していた。編集時のやりとりがノートで読める(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%AF)。Google八分など新たな火種の疑惑も。

*1マーケティング対象を考えると、パッケージや商品名がああいう萌え系である必要はぜんぜんないが、読み上げ出力機能があった場合、渋い親父声だったら萌えるなあ。なんか執事っぽくて<趣味丸出し

*2:音楽ならば声質や音感、リズム感など、天賦の才というものもありえるだろうが…