頭は一つ、体は二つ。

小さい子供がいる親の一人称は常に「自分(複数)」となって、それは「わたし」とも「わたしたち」とも異なる意味を持つ。身体は二つかそれ以上、だが思考し決断する頭は一つの奇形の獣のような、いびつな責任を負わなくてはならない。子供の成長とともに親はこの不都合と違和感に慣れて(あるいは妥協して)いくし、また二重体分離の時期もいずれはやってくるのだが…。

息子は13歳。数ヵ月前まで小学生だったにもかかわらず、中一になったその日から高一にしか見えない図体の大きさで、この年頃特有の血中屁理屈濃度も高くなってきた。したがって家の中ではほとんど放置プレイだが、右も左もわからない外国ではさすがに野放しにはできない。山に街にと連れ歩く間、ひさしぶりに小さい頃のように挙動に気を配らなくてはならず、いささかくたびれた。

今は二重体分離のゴールが見えかけているようでいて、まだ少し遠いようだ。

いずれは親に育てられたことなんかいっぺんもありません、てな顔で異性をくどいたりするんだろう。想像するだに憎ったらしいが、そうなったら大成功だとも思う。ふつうの大人になるのは、わりと難しいのだから。