足跡が三つ。

怪を訊く日々 (ダ・ヴィンチブックス―怪談双書)

相方はたくさん怪談を読む。『新耳袋』も『幽』も『超怖い』シリーズもどっさり積んである。仕事も仕事だし、これだけ怖い話を読んで何事も起こらないのだろうかと思って訊いてみたら、「そういう体験ならある」とひとこと。うわ、やっぱり。

彼が以前乗っていたプレリュードの話。

その白い車のボンネットからフロントへと、梅の花のような足跡が点々とついていることが時々あった。住まいの周りか、はたまた職場近辺の猫が歩いて残した跡だろうと思っていたそうだ。

ある日の仕事帰り、小雨模様の夕暮れに運転していてフロントガラスに足跡があるのに気づいた。ボンネットから屋根へと向かって、ぽんぽんぽんと三つ。すこしガラスが曇りかけたところに白く浮いたそれらを見たときは、ああ、またかと思っただけだった。すぐにワイパーをかけた。が、消えない。訝りつつ内側から拭いてみたら―――こすれて消えた。

そこで気づいた。

傾斜したフロントの内側を逆さに上る野良猫などいるわけがない。なにより、猫が車の中に入る機会はなかった。車内に落ちている毛もない。残っているのは足跡だけ。本人は、犬を飼っていたことはあっても猫は飼ったことがない。

足跡がどうやって、またなぜ現れたのかは今も謎のままだ。

それを見たのが怪談集『百物語』を読んだ次の日だったという以外、思い当たるふしはまったくないらしい。

見るひとと見ないひと、遭遇するひとと遭遇しないひと、そういう体質の差のようなものはどこからくるのだろうか。

見るひとに関していえば、周囲に居るそういうタイプのひとたちの話を総合すると、個人によって感じ方はかなり違うらしい。ダイレクトに見てしまう、何かが起きたその場所に遺された感情を感じとる、聞く、ただ気配のみを感じる、etc. と、いろいろなパターンがある。

自分は、眼を通しては何も見ない。脳裏に映るつかのまの影と、短い夢、カードめくりを通して、なにか遠いものやいるらしいものを垣間見ることがあるだけ。気の迷いで済ませてもいいくらいだ。

猫の足跡のような、手で触れられるような変事の経験はない。

いや、ひとつだけあるか。

幼稚園に通っていた頃、たぶん四歳か五歳くらいの記憶だ。自宅の居間のすみで拾った、何かの部品らしい薄い金属の小片を祈って消したことがある。

必ずできるという確信のもと、ティッシュの中に強く握りこんでマジシャンよろしく念じた。ティッシュを開いて、それがなくなっていることを確かめて、胸に穴が開いたような突然の喪失感と安堵を覚えたのは憶えている。

あれは夢だろうか。夢だ。うん。そういうことにする(逃