よくわからない。

数日前、twitter方面でぶつぶつつぶやいていた心霊関係の話。友人の体験談を再録しようとして今回は気持ちが悪くてやめてしまったのだが、心霊に関する自分の考えかたについては書いていなかった。そういう話がキライなかたもいるだろうから、続きはたたむ。

その呼び名で大雑把にくくられるものが実際に何なのかはちっともわからない。ただ現象として、ある状況下ですうーっと寒くなったり電気が暗くなったりすると「なにか『いる』のかな?」と感じる。何らかの意志を持った不可視の主体が存在するというよりは場所、人間、時間などの諸条件がそろって初めて起動する、一種の再現装置のような仕組み(ベースの媒体は場所。起動後にしかるべき手順を踏むと停止/消去=除霊できる)かとも思ったり。が、そこまでだ。怖い話を読んだり聞いたりするのは面白いが、日々の生活とは何ら関係がないというその一点において頭の中で完全に切り離して非日常の小部屋にしまってしまう。毎日雑事で十分に忙しいので、専門外のことはスルーである。

また、いつのころからか、そういう方面について深く追求することそのものが自分の禁忌となっている。なぜそうなるかについては、わかりやすい表現がたくさんある。さわらぬ神に祟りなし。藪をつついて蛇を出す。まあそんな感じ。

何年か前にも同じようなことを書いていたのでここに再録する。

映画『呪怨』ハリウッド版のテレビCFが「怖すぎる」として苦情が100件以上寄せられたと、ネットのニュースで読んだ。

実はあの広告の映像を見たことがない。

あれが流れる時間帯は、テレビ前にいないか、そちらに背を向けてPCに向かっていることが多いし、さらに、あのCFが始まったときはぜったいに振り返らないようにしているからだ。

先日テレビ放映されたあれのヲリジナル版は、しばらく同僚たちの話題になっていた。

「こわいから見なかった」とか「すこし見たけど怖かったから途中でやめて、お風呂に入って真っ暗にしてアロマキャンドルを点けてリラックスに努めた」とか、各人各様の反応が面白かった。真っ暗な風呂に入るほうが怖くないか?(笑)

こちらが「顔を伏せてアタマを洗っているときに、ナニモノかがうしろから文字通り手を添えて手伝ってくれたとかいう話もあるよね」と云うと、上記の同僚二人は、そういうのが怖いから、いつも背筋を伸ばして顔を伏せずに洗うのだと答えた。一人暮らしのひとは、みんなそれなりに自衛しているらしい。

呪怨』のような映画に対しては理由のわからない強い忌避感がある。

ミステリースポットに近づきたくないのといっしょで、どうしても厭だ。そういうたぐいの直感には可能な限り従うことにしている。ただのつくりもの、巷の怪談の焼きなおしだからと侮ってはいけない。よく知られた「百物語」にしても、ひとりひとりが怪異を語るその力で、最後に本物の怪異を呼び寄せるシステムを作り上げるのだ。

見えない力を信じていようと信じていなかろうと、それは発動することがある。

あの映画を中心にして無数の人間が構成する地雷原に、あえて踏み込むようなまねはすまい。臆病者なので(逃)