39階の死闘。
品川の某ホテルのスイーツビュッフェへ。
窓際の席に陣取って、最上階のパノラミックビュー(馴染みのない言葉を使うと気恥ずかしいな)を楽しみながら、宝石のようにきらきらと美しいモンブランタルトほか、さまざまなスイーツをせっせと賞味。メニューにはグラタンやサラダなどの軽食もあって、コーヒー紅茶も各種頼み放題の非常に贅沢な二時間を過ごすことができた。集った全員がマスターだったので、話題はもっぱらゲームの秋イベについて。ガチャボックスを百箱開ける鉄人がいるとは聞いていたが、この茶会の主催Aさん(たいへん頼りになるフレンドでもある)にそれを証明するスマホ画面を突きつけられて、ははあと平伏した。
おいしいもので頭のてっぺんまで満たされて、よろよろと帰ったのだけれど、ああ、あのちっさいカヌレ、もうすこし食べておけばよかったな…
ユリイカ2018年10月号「図鑑の世界」
三歳のときから図鑑教の信徒なので、飛びついて買ってしまった。
寒色系でまとめられた表1のイラストが素敵だ。
目次に各方面の図鑑(古生物からゲームまで)に関する記事が並んでいて、わくわくする。
小さい頃から小学館の図鑑NEO『魚』と『水の生物』を熟読していた身内の女の子は、海洋系学部に進んだ。息子は、車のカタログと生物図鑑に埋もれた幼少期をすごして、今も深海生物が大好きだ。趣味で鳥を撮る家族は、水禽類の図鑑が手放せない生活を送っている。自分に関して云えば、引越しにともなって思い出の図鑑を何十冊も泣く泣く処分した今では、夢のように美しい19世紀石版画を手の中で見せてくれる武蔵野美大のアプリが、マッチの灯火のようで、たいへんありがたい。
No図鑑、No Life。ゆっくり読もう。
裏世界ピクニックと青がヤバい件。
裏世界ピクニック2 果ての浜辺のリゾートナイト (ハヤカワ文庫JA)
- 作者: 宮澤伊織
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2017/11/30
- メディア: Kindle版
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人によってちがうのだろうが、自分の 言葉のインプット/アウトプット回線は同一らしく、自前のネタを書いているあいだは、本がうまく流し込めない。生まれてこのかた活字は飲み物扱いだったのに、この数年はチョコレート程度の固体として数日に分けてちまちまと摂取するのがならいになっていた。文庫の上下を一日でふつうに読んでいたころにはもう戻れないのかも、とも悲観していた。しかし大急ぎで資料のハードカバーを読むときは問題を感じないし、書くのさえ休めば、昔とまったく遜色ない速度で読めるのに気づいた。言語回線が並列増設できたらいいのだが、なかなか。
春からラジオ講座を聞き出した中国語は、半年で耳がやっと馴染んできた。文法はまだ何もワカラナーイ。来月始まりの秋季タームからも継続することにした。一方、露語文法をそろそろ忘れかけている自信があるので、こちらにもフォローが必要だ。二兎を追う者を地で行く状況だが、多言語海の遊泳は純粋な趣味なので。
ハリウッドの映画を観ていると、露語音声場面で英語と日本語の字幕がつくことがあって(『シェイプ・オブ・ウォーター』など)、ここで上述の言語単一回線問題が発生する。耳は露語を拾いに行き、眼には日本語と英語がダブルで迫ってくる。回線ぎゅうぎゅうの三カ国語責めはキツい。露語がすらすらわかるのならともかく、万年中級者の足りない語彙で追おうとするので、すごく疲れるのだ。せめて字幕が一言語なら。しかし同じ三ヶ国語でもアラビア語音声、英語/日本語字幕の映画なら負荷はもう少し軽かったので、とにかく「ちょっとでも理解できる」語の並列が回線パンクの理由なんだと思う。あのエジプト映画も面白かったな…
中国語と露語を見たあとに英語文を見ると、字面がやさしく語りかけてくるようで、ほっとする。外国語の読解も、慣れていくうちに母国語と同じ速度に到達するそうだし、リーダビリティの高い原書をもっと読もう。ゲイマンのGood OmensをKindleに落としたきりだったな。
前置きが長くなった。
上記の『裏世界ピクニック』も、そういう理由ですぐに読み出せずに去年買ってから積んでいたので、一巻をかるく再読してから突入した。
夜中の零時にスタートして、丑満時にしみじみと怖くなって、いったん本を閉じた。こんなこと、あの『リング』以来だ。
数年のあいだアウトプットに励みながらもなんとか定期的に読めたのは、各社から出ている実話怪談の文庫本だった。長くても数ページで終わる超短編が多いので、読書可処分時間が数分単位でも筋を追う苦労がなかったし、あとは純粋に怖い話の語りが好きで(昔から民話を読むのが好きなので、それもある)家族が買う文庫本を次から次へと読んできた。*1
さまざまな書き手が各々の語り口を披露する怪談本には、ときには記事として読むだけで何らかの「障り」があるといわれる話も載っている。怪異をまったく信じないひとには笑われるのだろうが、丁寧に集められた「怪談」が文字通りの実話であろうとそうでなかろうともたらすかもしれない何かを避けるために設けたマイルールのひとつが、「怖い話は夜中に読まない」だった。
それを思い切り破ったのは、裏世界ピクニックは毛色の変わったSFなのだと思っていたからだ。それなのに、こんなに怖いなんて。ぬかった。自分も洒落怖を読みあさった経験があるからなおさらなのか、下敷きにしている虚実入り乱れたネットロアの不気味さが宮澤氏の筆で淡々と増幅されていて、空魚と鳥子の冒険がひとつ終わるたびに、こちらもたいそうぐったりした。お見事。
不気味な「もの」をときどき見聞きする息子にも読ませられないかなと思って、Kindleではなく紙媒体にしたので、これでやっと渡せるなと思って、そこではたと思考が止まった。
物語のなかでは深い青、ウルトラブルーが人間の側ではない異界を象徴している。同じような話をリアルで聞いたのを思い出したのだ。
「白いのはいいんだけど……青い夢はヤバいんだよね。気をつけてね。あっち側だから。あっちのひとたちの云うことはわかりにくいんだよ。こっちとルールがぜんぜん違うみたいで。もっとわかりやすく話をしてくれたらいいんだけど」
嘆くようにそう云ったのは、昔、職場でいっしょに働いていた女性だった。
彼女のことは、日記に書いたことがある。仕事が良く出来る、ニコニコと笑みを絶やさない不思議な雰囲気のひとだったが、今はどこでどうしているのか。
この言葉は、巫女めいた力をもつ彼女に、息子が見聞きするものや、彼が頻繁に見ていた悪夢について聞いてみたときの返答だった。彼女の云うあちら側は、そのときのニュアンスからすると「生者のものではない世界」らしい。
そんなやりとりがあったことも、すっかり忘れていたのに。話中の米軍人の「怖い経験を忘却していた」エピソードともあいまって、ぞっとした。
以上、一切盛ってない。
11月刊行予定とアナウンスがあった三巻がとても楽しみだ。
AIの遺電子
AIの遺電子 RED QUEEN 1 (少年チャンピオン・コミックス)
- 作者: 山田胡瓜
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 2018/04/06
- メディア: Kindle版
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『AIの遺電子』の新シリーズ。ヒューマノイド専門医スドウは、違法コピーされた自分の母親ヒューマノイドの人格を探すために、単身海外へ飛ぶ。
外見からは、ヒツジに似た横長の瞳孔以外ほぼヒトとかわらないヒューマノイド(知能的にも身体的にも強化特化はされていないので、まったくの一般人レベル)が人間と混じり暮らす未来社会を淡々と、しかし鮮烈なテーマを込めて描く前作を読んだとき、短い一話完結スタイルであるにもかかわらず、各話が提示する視点の鋭さはもちろん、描き方といい、話運びといい、あまりに上手くてびっくりした。
今回、RED QUEEN編の一巻巻末の押井監督との対談で、山田氏の前職が記者だったと知ってたいへん納得した。取材から得たものを限られた字数で過不足なく料理するスキルは、漫画家になった今も遺憾なく発揮されている。押井監督が「アニメの脚本作りにほしい人材」と言っているのもうなずける。これだけのレベルをどこまで維持できるのだろうと思っていたが、二巻まで読んで(今回は長編である)その心配は杞憂だと知った。続刊がとても楽しみだ。
記者といえば、話は変わるが、息子の同級生のひとりが来年から某紙の記者となると聞いた。それぞれの道に進む彼らに幸あれ。
平成最後の夏の〆に。
鳥羽市立海の博物館(http://www.umihaku.com)で今月末まで、水彩で水生生物を描く長嶋祐成氏の個展をやっているというので、車に乗り込み、くねくねとうねるパールラインの彼方に出かけた。
氏を知ったきっかけは、家族が取り寄せた長嶋氏の画集『黒潮魚の譜』だった。淡くにじむ筆で、魚体の鮮やかな色、儚い輝きを写し取る絵に魅せられて、本物を見てみたいとずっと思っていたのだ。
道すがら「焼き牡蠣あります」看板をいくつも見ながら到着した当該博物館は、瓦葺きに黒板張りの海辺の蔵のような(語彙力がない)面白い建物が並んでいて、建築関係の賞も取っているらしい。
自分が行った日は空いていたけれど、八月中のにぎやかな様子が、置かれていた来館者ノートから読み取れて、微笑ましかった。
落ち着いてすぐそばから見られて、ほんとうによかった。
自分の周りにも、鯵が開きの状態で海を泳いでいると思っていたひとがリアルにいた。あの頃に、まるごとの魚がどのように調理されるかを丁寧に絵解きした長嶋氏の『きりみ』絵本があればなあ…
船の収蔵庫(木製の船を保管するために湿気が保たれていて、もわっとしていた)やタコを中心にした企画展を見て回ったあとは、併設のカフェで海女さんの取ったテングサから作られたところてんデザートを。
帰りの空に、彩雲を見た。
博物館では、伊勢神宮で毎朝毎夕用意される神様の食事(日別朝夕大御饌祭)の模型も展示されていた。あれだけの手間をかけた立派な、また清浄な御饌を、毎日二回、千五百年。せんごひゃくねん…にわかには腑に落ちない時間の長さだ。来年からどんな元号になったとしても、あの儀式は続くのだろう。ふだんは、神社にお参りにいったときでさえまるで意識しない、神道祭儀の背骨をちらりと見たような気がした。
蕃東国年代記
長いこと積んであった『果報者ササル』に手をつけた夕方に、西崎憲『蕃東国年代記』(創元推理文庫)が届いた。厚みもほどよく、流れるような文体のおかげもあって、夜更かししてひといきに読了した。
(ここで露語なら動詞「読む」の完了体 прочитать を使うんだろうなと万年学習者っぽい感慨にふけって、一マス休み)
大陸と日本の影響を受けて言葉も社会のぐあいもよく似た、日本海に浮かぶ小国「蕃東国(ばんどん)」を舞台にした短編集であった。日本(作中では倭国)で言えば平安朝を思わせる上古の蕃東の物語の合間に、現代文献の引用(それもむろん作者の創作なのだが)を挿入する、入れ子のような枠組作りも功を奏して、小匣のなかの端整な小宇宙を覗くようで楽しかった。
長く語り継がれて磨かれてきた東西の奇譚・説話と、現代作家による物語。それらを分ける秘密の調味料はいったい何だろう。淡い墨絵に似た蕃東の物語(作中の言葉を踏まえてBandonic tales とでも呼ぼうか)と同じように浮世を離れて霞を踏む境地を目指したはずが、包み紙に現代の脂がべたべた滲む質のよくない生煮えの作り話に堕してしまったものはいくらもある。
優れた物語は、天気管(ストームグラス)のように、たしかに大気中にあるけれど人には感知できない何かを、あえかな結晶として見せてくれる。読者はその風変わりな美を愛でるかわりに、硝子に封じられたことわりに関与することはできない。すぐそこに在るように見えながら、実ははてしなく遠い。その距離感が、古譚や説話にも比する調和をこれらの蕃東の物語に与えているのかもしれない。